宮内悠介
創元日本SF叢書
盤上の夜
人間の王
清められた卓
像を飛ばした王子
千年の虚空
原爆の局
本書は囲碁,チェッカー,麻雀,チャトランガ,将棋といった盤上競技にまつわる物語が一人のジャーナリストの視点で描かれる短篇集である.
ジャンルとしては一応SFになるのかな.
表題作『盤上の夜』.両手両足を失い,碁盤を身体に取り込んだ女流棋士の話.
「星が痛い」碁盤を感覚器官の一つとし,一種の身体感覚として局面を感じる.興味深いのは,その特異な感覚を言語化するための言葉を増やすことで強くなろうとする様子だ.私も,囲碁を覚えた後,最初にしたのは用語を学ぶことだった.コスミ,星,ケイマ,カカリ,ノビ,ボウシ,ヒラキ,等々.一手一手を言語化して意味づけることで,理解しやすくなるのだ.言語と思考の関係は不思議である.
本書で描かれるようにボードゲームは抽象を極めたものようにしばしば語られる.しかし,私が思うに,ボードゲームってすごく具体的じゃないか?ゲームの概念を体系化してゲーム理論とかにすると確かに抽象的になるが,個々の競技は具体だろう.それを概念的でモヤモヤっとしたものと言うのは,違うのではないかなと思う.将棋とテニスなんて似たようなもんだけど,誰もテニスを抽象とは言わない.勝負に生きるスポーツ選手を,生きているか死んでいるか分からないような,現実より一段階上の上位概念の中で生きているように表すのはやや違和感がある.
興味深かったのは『人間の王』だ.チェッカーという競技において人間とコンピュータとの戦いについて語る.
計算機が進化して,ボードゲームにおいてコンピュータ対人間という対立が成立してしまったら,ボードゲームもSFの対象になってしまうわけだ.人間の定義が科学の進歩によって揺らぎ,変わっていく様子を描くのがSFだ.人を人たらしめるのが知性で,その象徴がボードゲームだとすれば,そこにSFが成立する.
ただ,コンピュータ対人間といっても,コンピュータを操るプログラマ対頭で考える人間の戦いなのだ.
そこで思いついたのだが,コンピュータプログラムで手を決定するというのは要するに計算機で支援されてゲームをしているということだ.Computer Aided Gaming; GAGなわけだ.電卓片手にゲームをするなんてする人はいないわけだが,それを認めたら面白くないか?つまりプレーヤーはコンピュータを脇において,コンピュータの計算を参考にしながら,ゲームを進めるのだ.例えば,プレーヤーが考えうる着手候補をピックアップしてコンピュータに入力すると,コンピューターはそこから何手か進んだ局面を計算して評価をあたえるのだ.コンピューターの計算結果を採用するか否かはプレーヤーの棋力次第.
それはモータスポーツのようにマシンとドライバーが共闘する面白い戦いではないだろうか.まして,ボードゲームは人間とコンピュータがせめぎ合っているのだ.モータスポーツなんかはマシンに人間がおんぶに抱っこしていてドライバーは本当に必要なのかと思えたりもするわけだが,ボードゲームならお互いを補完しながら強いところに行けるではないかと思える.
コンピュータプログラムが人間を超えた時,次にあるべきゲームの姿はCAGなんではないだろうか.と思ったけど,高度過ぎて誰もやらないよな.ゲーム自体も強く,プログラムの思考ルーチンが分かる人なんてほとんどいない.面白いとは思うけど普及はしないだろうな.
『人間の王』に戻るが,チェッカーは完全解が発見されてゲームとして終わってしまった.この部分に関しては,人間対機械とは別の話だ.ゲームをする人としては寂しい話だが,すべてのゲーム問題はいずれ解決されてしまうということについてはもっと考察が必要に思えた.
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