押井守
幻冬舎新書
第1章 コミュニケーションのできない日本人つまらない本だった.飲み屋で聞かされるおっさんのぼやき話のようだった.Amazonで本を買うとつまらん本に当たる率が高いのはどうしてか.
第2章 僕は原発推進派である
第3章 曖昧な言葉が生む無責任な世界
第4章 日本はまだ近代国家ではない
第5章 終わりなき日常は終わらない
第6章 自分の頭で考える――本質論の時代
同著者の『凡人として生きるということ』は面白かった記憶があるのに.私の考え方が変わったのだろうか.
本のタイトルは注意を引くために刺激的なものがついている.しかし,タイトルと逆で,本書の主張はコミュニケーションは要るということだ.ただし,本書でのコミュニケーションの定義は「コミュ力」などと言われているものとは異なる.
『コミュニケーションには二つの側面がある,と僕はおもっている.
ひとつは「現状を維持するためのコミュニケーション」で,もうひとつは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」だ.』p.22-23
『だが,コミュニケーションとは本来,異質な世界や異質な文化といかにつきあい,新たな関係性を生み出すかという重要な目的を持っている.』p.23筆者は 異質なものとつきあうコミュニケーションが日本人に欠けているのだと指摘する.
また,TwitterやSNSによるコミュニケーションは真のコミュニケーションではないと言う.
『しかし,そこにあるのはお手軽に欲求を満たすためだけの,あくまで擬似的なコミュニケーションだ.目を逸らしたい問題から自由に目を逸らすことができるという時点で,コミュニケーションの本質にはたどり着けない.』p.40以上のようなことは一般論なので,私も完全に同意する.
しかし,原発の話になると議論が雑で読むのが苦痛であった.原子力の専門家以外は原発について語るなとは全く思わない.しかし,反原発派は情緒的で考えが足りなくて,経済とかいろいろ考えたら原発はいるだろ?ということを要は言いたいのだろうが,そのいろいろを論じないと議論にならない.
国防も確かに大切だけれども,エネルギーと絡めてウンチクを語られると,日本が核武装しないことが原因で福島第一原発が爆発したと書かれているようにも読める.
また,コミュニケーションに必要な論理思考と言語空間の欠如について指摘する.書き言葉がないから,論理が組み立てられない.その場しのぎの逃げ口上ばかりで,議論にならない.
なるほど,確かにこの本の文章を読むと,口語での文章は読むに耐えないことがよく分かる.一文ごとに改行されているのはブログだけだろう.
選挙は行くべき.投票をしないことを偉いことのように書く人が,国防の意識が足りないだの,政府に責任を追求しても仕方ないど言ってても全く同意出来ない.行動しない人が口先だけで言っていると感じる.積極的不投票なんて行動はない.
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