監督 押井守
脚本 伊藤和典
言わずと知れた名作.
改めて感想を書くこともないのだが,押井守による小説版『TOKYO WAR MOBILE POLICE PATLABOR』を読んだ感想を書こうと思ったら,映画の方を語らずして,なにも語ることができなかったので.
舞台は現在の東京.自衛隊の戦闘機により横浜ベイブリッジがミサイル爆撃を受ける.特車2課の後藤と南雲のもとに陸幕調査部別室の荒川という男が訪れる.荒川は爆撃は航空自衛隊の攻撃を装ったテロの可能性を示唆する.しかし事態は,警察上層部の思惑や政府の対応の遅れから悪化の一途をたどり,東京には陸上自衛隊が展開し,首都圏は戦争状態となる.バラバラになっていたかつての第2小隊が再び結集し,事件の首謀者を捉えるべく立ち上がる.
本作は戦争論映画である.戦争とはどういう状態か,逆に平和とはどういう状態か.それを登場人物に論じさせ,問わせるための作品だ.荒川が長いセリフをブツブツと話しているシーンが印象的だ.
日本人は戦争をテレビの向こう側の遠い所に見出すことで,戦争と双対な状態としての平和を得ているのではないか.現実に存在する戦争を直接は見えないところに押し込めることで,平和状態を作り出しているのではないか.実際には平和なんてものは存在せず,ただ戦線が遠く離れて感じられないところにあるだけではないのか.
『スカイ・クロラ』でも同様の構造が描かれている.こちらの場合は,戦争から離れているという偽りの平和と安心を買うために,戦争請負企業とキルドレという子供に見世物としての戦争をさせる世界という,さらに飛んだ設定だ.
『コミュニケーションは,要らない』でも,日本人には危機感が足りないと押井氏は指摘していた.
『スカイ・クロラ』でも同様の構造が描かれている.こちらの場合は,戦争から離れているという偽りの平和と安心を買うために,戦争請負企業とキルドレという子供に見世物としての戦争をさせる世界という,さらに飛んだ設定だ.
『コミュニケーションは,要らない』でも,日本人には危機感が足りないと押井氏は指摘していた.
この映画は戦争状態を擬似的に東京に作り出し,人々の目を覚まさせる.今,東京が突然攻撃を受けたらどうなるのだと映画内で実験している.
同時多発テロを機に,戦争に前線はなくなった.世界のどこにいても攻撃を受ける可能性があるということが明らかになった.この映画に描かれているように,単に戦争でないだけの消極的な平和など偽りの平和に過ぎないことが,アルカイダの同時多発テロによって証明されたのだ.
(同時多発テロについては『大仏破壊 ビンラディン,9・11へのプレリュード』を参照 2012/12/6)
しかし,別に偽りの平和でもいいじゃないか.実際そこで人々が血を流さずに生きているのだから.それに何の問題がある.
押井氏は,日本人は戦争をフィクションのものとしか理解しないと批判するが,それって,押井守,あなたのことではないのか?『火垂るの墓』を見て戦争でない平和な日本を認識する人々を,そういう人たちの映画をつくって批判する.現実とフィクションを混同しているのは,あなたの方ではないのか.安全圏にいながら,同じ安全圏にいる人々をお前には危機感が足りないと批判する.それは許されることなのか.素直に安全圏にいることを喜ぶべきではないのか.あなたのオタク的軍事知識は,実際戦争をして得たものではなく,まさにあなたが批判する戦争を対岸のものとする姿勢から得られたものではないのか.
そう思いたくなるが,しかし,フィクションとしての戦争を描いたフィクションを見て,それを批判したりすることの無意味さをこの映画は指摘しているのだ.そういう入り組んだ構造になってしまってややこしい.
要するに,押井守はフィクションを作っていながら,フィクションによる主張というものの価値を認めていないのだ.
つくづくめんどくさいおっさんだなと思う.映画によって思想を伝えるということを認めていないのに,あなたは一体どうして映画を作るのか.映像的な面白さやディティールの描写のためだけに映画を作っているのだろうか.一度伺ってみたい.
同時多発テロを機に,戦争に前線はなくなった.世界のどこにいても攻撃を受ける可能性があるということが明らかになった.この映画に描かれているように,単に戦争でないだけの消極的な平和など偽りの平和に過ぎないことが,アルカイダの同時多発テロによって証明されたのだ.
(同時多発テロについては『大仏破壊 ビンラディン,9・11へのプレリュード』を参照 2012/12/6)
しかし,別に偽りの平和でもいいじゃないか.実際そこで人々が血を流さずに生きているのだから.それに何の問題がある.
押井氏は,日本人は戦争をフィクションのものとしか理解しないと批判するが,それって,押井守,あなたのことではないのか?『火垂るの墓』を見て戦争でない平和な日本を認識する人々を,そういう人たちの映画をつくって批判する.現実とフィクションを混同しているのは,あなたの方ではないのか.安全圏にいながら,同じ安全圏にいる人々をお前には危機感が足りないと批判する.それは許されることなのか.素直に安全圏にいることを喜ぶべきではないのか.あなたのオタク的軍事知識は,実際戦争をして得たものではなく,まさにあなたが批判する戦争を対岸のものとする姿勢から得られたものではないのか.
そう思いたくなるが,しかし,フィクションとしての戦争を描いたフィクションを見て,それを批判したりすることの無意味さをこの映画は指摘しているのだ.そういう入り組んだ構造になってしまってややこしい.
要するに,押井守はフィクションを作っていながら,フィクションによる主張というものの価値を認めていないのだ.
つくづくめんどくさいおっさんだなと思う.映画によって思想を伝えるということを認めていないのに,あなたは一体どうして映画を作るのか.映像的な面白さやディティールの描写のためだけに映画を作っているのだろうか.一度伺ってみたい.
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